令和4年9月の話

 お寺の前のバス通りは、旧東海道で、「二本榎通り」と言います。二本榎通りのランドマークとも言える「とらや」さんの建物が取り壊されたら、高輪の様子が随分変わって見えるようなりました。私が小学生だった頃は、とらやさんから高輪警察署までの間には、たくさんの商店があってとても賑わっていました。毎月八のつく日は、一割引きの「八の日」特売日があったり、年に一回は、歩行者天国にするような街並みでした。それがこの五十年という時間の中で、今や商店は数えるばかりで背の高いマンションか、お寺ばかりというイメージになってしまいました。少しずつ変わっていく時には気づかないのですが、とらやさんの解体によって、その変化を突きつけられた気がします。テレビのクイズ番組などで、今、観ている写真が少しずつ変化していき、どこが変化したかを当てる問題を見かけますが、まさにそんな気分で、その変化の様子を見ている筈なのに見てないのですね。

 ところで、高輪ゲートウェイ駅が開業から二年半が経ち、駅周辺では商業施設の建設が進められています。三年後の完成が待ち望まれていますが、基礎工事を進める中で、我が国初の鉄道が開業した際に、会場に線路を敷設するために築かれた高輪築堤が見つかり、保存する方法が論議されていました。どのような保存になるのかは今後の楽しみですが、高輪ゲートウェイ駅周辺が海上だったというのにも驚かされます。新橋横浜間の鉄道が開業したのは、明治五(1872)年なので、百五十年の移り変わりは、スケールが違いますね。駅周辺の施設が完成すると、これからの五十年でも想像が出来ないような移り変わりがあることと思いますが、そんなことを考えるとワクワクしてきます。歴史の中では私たちが生きる時間はごく僅かかもしれませんが、いつも大きな変化の中に生きるご縁を頂いていると思うと、何気ない日常の暮らしのすべてを大切にしたいと思えてきます。

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