證 誠寺の開基了永は、八十二代後鳥羽天皇の時代の建久三年(1192年)、 美濃国(現在の岐阜県)に出生された方で、生い立ちは、清和天皇の子孫にあたり、 出羽の判官土岐光信の曾孫光行の六男と伝わっており、源氏の正統となります。 兄・光定亡き後土岐家を受け継ぎ、美濃国の領主を務めておりました。
建保四年(西暦1216年)、何か感ずるところあり、当時の地位や名誉を捨て去り、 比叡山に登りました。出家得度して修行に専心し、ついに権大僧都の位を賜りました。 後に、比叡山を下り、各地を遊歴し、承久三年(西暦1221年)に、杖を武蔵国豊嶋郡 桜田村霞ヶ関(現在の千代田区桜田門付近)に留め、一寺を創立し、天台宗桐樹院長命山常樂寺と号したのが、当寺の始りであります。この頃の本堂の前には、大きな桐の木々が生い茂っていたので、「梧桐の大道場」と呼ばれていました。
親鸞聖人が関東に教化された嘉禄年間(西暦1225~1226年)、親交のあった麻布の亀子山善福寺の開基・了海上人のお導きにより、当寺開基・了永は、親鸞聖人にお会いする ご縁に恵まれ、この時、易行の真理を聞き、親鸞聖人の直弟子となり、浄土真宗へ 改宗いたしました。親鸞聖人御歳53歳、開基了永34歳の時のことでした。
その後、数十年を経て、正応元年(西暦1288年)10月20日、97歳にて還浄されました。
山号や寺号が現在の護念山證誠寺に改号したことに関しては、詳細なる記録を焼失し、 不明ですが、関が原の合戦の時には、「證誠寺」と名乗り、徳川家康候へ火縄銃などを 寄進したという記録がありますので、遅くとも安土桃山時代には、「證誠寺」と改号しております。
江戸時代になり、慶長十七年(西暦1612年)に、当寺境内地は、西ノ久保の龍土丸山に 移転しました。更に承応元年(西暦1653年)、現在の高輪の寺所に移転し、幕府より、3,033坪の拝領地をいただきました。
享保五年(西暦1720年)に鐘楼堂が配置されました。
阿弥陀如来の御本尊の他に、稲荷大明神が御祭りしてありましたが、明治元年施行の神仏分離令により、お社の境内地部分2,000坪を、明治政府に寄進することとなりました。 第二次世界大戦では、昭和十七年(西暦1942年)に鐘楼堂の梵鐘を供出し、江戸時代中期に建立された築二百年を数える本堂をも焼失しました。昭和三七年(西暦1962年)に 現在の本堂を再建、客殿は昭和52年(西暦1977年)に再建、平成24年(西暦2012年)に、江戸時代の鐘楼堂石垣の上に、鐘楼堂を再建しました。
開基了永以来、血脈相続により法灯を伝承し、現住職正信で、第三十世を数えます。 開基了永が当寺を創立された承久三年(西暦1221年)より起算しますと、 令和三年(西暦2021年)で800年を数え、現境内地に移転してからは、368年を数えます。御開基より歴代住職の法名は下記のとおりとなります。
世代 | 法名 |
御開基 | 釋 了 永 (1192-1288) |
第2世 | 釋 了 教 (1214 -1312) |
第3世 | 釋 了 覚 ( 1263-1333) |
第4世 | 釋 永 教 (1303-1355) |
第5世 | 釋 教 誓 (1331-1385) |
第6世 | 釋 教 雲 (1357-1399) |
第7世 | 釋 了 圓 (1382-1426) |
第8世 | 釋 永 甫 (1403-1451) |
第9世 | 釋 永 寿 (1422-1473) |
第10世 | 釋 寿 覚 (1442-1492) |
第11世 | 釋 了 頓 (1464-1516) |
第12世 | 釋 永 善 (1488-1535) |
第13世 | 釋 永 源 (1516-1554) |
第14世 | 釋 光 林 (1543-1568) |
第15世 | 釋 光 岑 (1561-1594) |
第16世 | 釋 永 空 (1562-1621) |
第17世 | 釋 源 光 (1590-1645) |
第18世 | 釋 光 吟 (1618-1672) |
第19世 | 釋 傳 秀 (1639-1701) |
第20世 | 釋 了 秀 (1669-1727) |
第21世 | 釋 了 慶 (1687-1729) |
第22世 | 釋 祐 傳 (1723-1779) |
第23世 | 釋 了 胤 (1753-1789) |
第24世 | 釋 了 敬 (1786-1858) |
第25世 | 釋 永 恭 (1812-1865) |
第26世 | 釋 了 義 (1838-1901) |
第27世 | 釋 永 敬 (1864-1933) |
第28世 | 釋 知 進 (1880-1964) |
第29世 | 釋 誓 進 (1926-2016) |
第30世 | 釋 正 信 (現 住 職) |