平成29年1月の話

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。昨年、前住職のお別れでは、皆様に大変お世話になり、有難うございました。お陰様で、先月十日には、納骨を済ませることができ、落ち着いてまいりました。浄土真宗には喪中という慣習はありませんが、満中陰が十二月でしたので、準備が整わない理由により、今年の年賀状は失礼させていただき、通常通りに除夜会や年始参りにいらしていただこうと思いまして、年末に寒中見舞いを送らせていただきました。ところが、年末に寒中見舞いが届いたので、「喪中」で「年賀欠礼」なのだと思われた方々もいらしたようで、かえって混乱させてしまうことになり、心よりお詫び申し上げます。
 そもそも、「喪中」とは、近親者が亡くなった場合、一定の期間、身を慎むことを言います。身を慎むことを「服喪」と言って、古くは、門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せずなど、さまざまなしきたりがありました。
明治七年に出された太政官布告によると、両親の場合には、忌日が五十日で、服喪が十三ヶ月とか、祖父母ならば、忌日が三十日、服喪が、百五十日とか、続柄別に細かく定められていましたが、戦後に廃止されました。浄土真宗では喪中が無いと言っても、故人との別れを軽んじているわけではありません。浄土真宗の御教えは、後生の一大事に、直ちに阿弥陀さまに救われ、仏さまとしてお浄土に生まれさせていただくのです。ですから、故人が仏さまになれるように追善する喪中はないのです。喪中だからと言って、年賀を欠礼したり、おめでたい宴席を遠慮する必要はありません。ただ、ご自身の悲しい気持ちや、寂しい気持ちから、年賀状を失礼したり、おめでたい宴席を失礼することはあることでしょう。この世の別れの悲しみが落ち着く頃、阿弥陀さまに救われる有難さに気づかせて頂き、お浄土で再開するまでのしばしの別れであることが有難く思えてまいります。

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