徳川家康により天下統一がなされ、江戸時代がはじまり、京都を中心としていた西本願寺も、江戸に御坊を設ける計画がすすみ、一六〇七年、現在の浅草の辺りに境内地として利用する土地を購入したという記録が残っております。それから十年の月日を費やし、一六一七年に完成したのが本願寺江戸御坊の始まりとなります。ですので、今年で丁度四〇〇年を数えることとなります。しかしながら、一六五七年、江戸の振袖大火として有名な明暦の大火で当時の本堂などを焼失し、江戸再建計画により、同地での再建は許可が出ず、佃沖の一〇〇間四方の海上に江戸御坊を再建することになりました。佃周辺の熱心なご門徒の尽力により、海上を埋め立てることからはじまった再建工事は、みんなで地面を築きあげたことから、この地を「築地」と呼ぶようになりました。今では、市場の方が有名ですが、もともとは、築地御坊と寺中寺院五十八ヶ寺のために整備された土地だったのです。
築地御坊は、大正十二年の関東大震災で再び焼失し、昭和九年に今の本堂が完成しました。五十八ヶ寺あった寺中寺院の大半は、足立区や世田谷区の方へ移転していきましたが、今でも築地場外市場の中に数ヶ寺の寺院が残っているのが、以前の築地御坊の面影を伝えています。築地御坊は、五年前に築地本願寺と名称を変更して、新御門主と共に首都圏での浄土真宗の御教えを広める拠点として活用していけるよう境内の工事を完了して新しい装いとなりました。
親鸞聖人が流罪を赦免され関東の地にいらしたのは、今から八〇〇年前です。当時、親鸞聖人はお念仏のみ教えを広めるために東奔西走の活躍をされたそうです。そのおかげで今、私たちは、お念仏のみ教えに出遭うご縁を頂戴したのです。そして、この素晴らしいお念仏のみ教えは私たちだけで終わりにするのではなく、今度は私たちが、お念仏のみ教えを広めるご縁を頂いているのです。